仕事の働き方や勉強を自由に柔軟にする考え方。社会の文化を超えて

仕事の働き方や勉強を自由に柔軟にする考え方。社会の文化を超えて

落合陽一さんの「耳で聴かない音楽会」のレポートを見て、発想の自由さと柔軟さを鳥肌立てながら感じた。

本当はもっと自由でいいのに、凝り固まってしまっているかもしれない、と思いつつ、ぼくたちの生活に潜む文化について考えた。

実はもっと自由でいい

もっと働き方は自由で、勉強の仕方も自由でいい。

実は、仕事でパソコンを使う必要なんてないし、勉強で机を使う必要もない。

 

仕事とは何なのかというと、人間社会の中での価値提供のこと。

逆に言えば、価値提供さえできれば、どんな風に働いてもいい。

 

勉強なら、知識を得られればいいし、計算ができるようになればいい。

 

だから大切なことは、

どうやったら仕事の本質を突いた行動とれるのか考えて行動すること。

 

高い抽象度をもった意識からの問いかけ

こうした考え方をするために、人生一度は考えておいた方がいい問いがある。

 

それは、

「自分は何のために生きているのか」

という問い。

 

というのも、自分の存在についての問いというのは、自分が生きる上でのあらゆる概念を包み込むほどの抽象度があるから。

それと、人類社会での文化に染まってしまうことを避けるためにも、すごく大切だから。

 

ぼくも、ずっと前からどうして自分が生きているのか考え続けてきた。

同時に、どうして人間や他の生き物も一緒に地球上に生きているのかも。

 

結局、ぼくたちは寿命という限られた時間の中で生き、約80年もすれば死んでしまう。

その間に自分の子孫を残し、次の世代へと時代が受け継がれていく。

じゃあ、その繰り返しの先にはいったい何があるんだろう。

 

今生きていても、最終的には自分という存在がいなくなってしまうのなら、どうしてぼくたちは生きているのだろう。

 

こうした問いに対して、昔のぼくは

「そんなものには意味がない。結局死んでしまうんなら何をしようが何もしなかろうが、同じことじゃないか」

と思っていた。

 

でも、今はちょっと意見が違う。

 

自分たちが人生を生きる理由が原点になる

生き物や人間には欲望がある。

文字通り、「何かしたい」という欲求のことだ。

そして、その欲望はぼくたち人間を生まれてから死ぬまでずっと動かし続ける。

欲望があるからこそ、ぼくたちは、よほどのことがない限り、生きたいし、死にたくないと考える。

 

だから、ぼくたち人間はその一生を欲望に従って終えていくんだ。

人によってこの問いの答えは違うし、それでいい。

 

そうした「どうしてぼくたちは生きているのか」という問いの答えが分かれば、それはあらゆる物事を考えるときのベース、つまり前提となる。

このベースが最も大事で、最初に述べた働き方や勉強の仕方にも通じている。

 

要は、自分が生きて働く上で、

もっと言うと、自分の人生の時間を使って社会へ価値提供をする上で、

「今、自分がしている作業は本質を突いたものなのか」ということを考えるための原点になる。

 

人類社会の文化に疑問を投げかける

もしかしたら、その作業はパソコンじゃなくてもできるかもしれないし、複雑なソフトを使わなくていいかもしれない。誰かに直接尋ねてみるだけで済むことかもしれない。

ぼくが人類社会の文化と呼ぶのは、このこと。

 

つまり、

今まで何も疑うことなく行ってきたその作業は、いつの間にか誰かの価値観や常識を自分の中に取り込むことで生まれたものだということ。

 

これをもう一度見直すときに、

さっき挙げた「自分はどうしてここにいるのか」という抽象度が最高レベルの質問を投げかけることが大切になる。

本質が何なのか考えるきっかけになる。

 

そして、本質を掴めば、目の前のことが必要なことなのか、それとも無駄なことなのか分かって、柔軟で自由な一手を打つことができる。

 

時代の流れとともに文化も変わっていくのだから、それに合った自分らしい生き方をしたい。