「~かも」日本語が曖昧なのはなぜ?その理由を日本人の性格と英語から考える
- 2018.06.17
- 勉強トーク
19歳のころ、オーストラリアに留学したんだけど、そのときに日本人の話す英語について印象深い出来事があった。
「かもしれない」文化
それは、日本人はよく「かもしれない(maybe)」という言葉を使用する人種だと思われていたこと。
ぼくも語学学校で先生に何か質問された時には「maybe」と話していたから、何も反論できない。
じゃあなんで日本人は「~だ」という断定より「~かもしれない」という曖昧な言葉を使うんだろう。
曖昧さの良い面と悪い面
この点について、良い面と悪い面を考えてみたい。
悪い面
まず、悪い面から言うと、自分で責任を持ちたくないから。
「かもしれない」言えば、あくまで断定してはいないから、責任は自分ではなく相手にある。こうやって責任転嫁をしているんだと思う。
家族や親友といった親しい人とはそんなことは少ないと思うけど、あまり親しくない人との会話では少なくないんじゃないだろうか。
良い面
一方で、良くいえば、人に押し付けるような言い方をしたくないから。
自分が他人の行動や思考に対しての評価や価値観を言い切ることで人に命令するような印象を与えてしまう。
例えば、ある人が自分に悩みを相談してきたり、質問してきたりしたときにアドバイスをするとする。そのとき、自分のアドバイスに自信があれば「こうすれば良くなる!」って断言が出来るけど、
そうでなければ、「~たらいいんじゃ」「~といいかも」というような曖昧な答えになってしまう。
その他
他にも、断言する事で相手の反発を受けて自分が傷つくこと、逆に自分が相手を傷つけることを避けているという理由もある。日本人だからだと思うけど、どうも日本語の断言にはキツいイメージが付いてまわる。
英語という言語のイメージは
英語という言語ではこのような曖昧な表現を使用するイメージが無い。
喧嘩をしたら自分の思ってることをストレートに言って相手にぶつけるイメージ。
しっかりと自分の意見を持ち、それに自信があるからハッキリと物事を主張できるんだと思う。
アメリカでディベートが盛んだったり、弁護士が多かったりする理由はそこにあるんだろう。もちろん、英語でも曖昧な表現はあるんだけど、それらを好んでは使わない言葉のイメージが強い。
だったら、英語の方がいいのかというと、そういうわけでもない。
ハッキリと意見を主張することによって争いはより生まれやすくなる。お互いの意見が合わないときは真っ向からの意見の殴り合いが起こるだろうから。
日本人が持つ言葉の意識
英語を話す人に比べると、強い主張を避ける日本人は、おのずと互いの争いが生じにくい状況を作り出してる。
日本人の思いやりの精神や気配りは世界的に素晴らしい。
また、敬語という、相手を敬い自分がへりくだる言葉が発達したという面からも、日本人には一人一人を敬う心があり、争いよりも協力の空気が流れる環境を作ってる。
それは日本人として誇らしい事だし、日本人は最も世界平和の先駆者にふさわしい人種だ。
でも、残念ながら、そんな日本でも自殺率は先進国の中でもトップ。
日本人同士のコミュニティー内で主張が強くできないことは、人々に自殺を起こさせるストレスをかけている要因だ。
主張の強弱のバランスが取れたら、人と人との関係はもっと良くなる。
言葉には自分の思考が反映されるから、日常で自分の使ってる言葉を見直して、十分に気をつけて使いたい。
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