「仕事がつまらない!」サラリーマンがそう思う理由は考え方にあり

「仕事がつまらない!」サラリーマンがそう思う理由は考え方にあり

仕事がつまらない、楽しくない、と思う人には、共通した考え方があります。それに気づければ、自分が何をすればいいのか分かるはずです。

行動しているのか、行動させられているのか

「仕事への奴隷化」と聞いて、何を思いますか?

もし、仕事がつまらない、苦しいと感じたとしたら、この記事(「どうすればいい?」感情に揺れる人がそのバランスを取る方法)でも述べましたが、感じたこと自体が真実です。

実際につまらないから、つまらないのでしょう。

それはどうしてでしょうか?

 

ぼくの考えでは、自分から行動していないからだと思っています。

 

「与えられた仕事を与えられた通りにこなし、間違いを犯したら、叱られる。そして、一通り仕事をこなしたら、また次の仕事が待ち構えている」

 

そんな日々に気づかずに過ごしていると、いつしか自分が仕事の奴隷となっているでしょう。そして、その事に気づかずに毎日を苦痛の中で過ごすのです。

ここで大事なことは「自分は行動しているのか、行動させられているのか」という視点であると思います。

 

生き物の行動を示す法則

イタリアの経済学者・社会学者であるヴィルフレド・パレートによると、面白いことに組織には、パレートの法則が働いているそうです。

パレートの法則とは「社会全体の所得の多くは一部の高額所得者が占めているが、それは国や時代の制度の問題ではなく、一種の社会的自然現象である」ことです。

これは、仕事に関して述べると、ある組織内には良く働く人が20%、普通に働く人が80%(良く働く人が20%、普通に働く人が60%、ほとんど働かない人が20%という説も)という法則があるということです。

 

パナソニックの経営者であった松下幸之助も2・6・2の法則:「会社には2割の優秀な社員、6割の普通の社員、2割のダメな社員がいる」と述べたそうです。

しかも、これらの法則はどんなに優秀な人材で構成された組織にも当てはまるというのですから驚きです。

 

仕事の奴隷の考え方

ぼくはこの法則でいう80%の人々は行動させられている人ではないかと思います。

そして、苦しむとまではいかず、普通に生活している人でも仕事の奴隷であることがあります。

それは20%の行動している人は、その仕事が楽しいから「もっと何かしたい」「何か自分に出来ることはないだろうか」という思いが強く、仕事を趣味や好きなこととして楽しんでいるからです。

 

仕事をしている人の考えの多くは、おそらく「やっと休みだ」「もう月曜日か…」など仕事からの解放を望んでいる事に焦点が置かれているでしょう。

これでは、仕事の効率は下がりますし、残業があれば億劫になります。

そして、祝日などの休みがあればラッキーと思うのです。

 

また、自分の生活の変化を拒んで、何よりも安定を望み、面倒事を避ける傾向にあります。

普通に食事が摂れて、安心して睡眠がとれ、また次の日にいつも通り仕事に行ければいいのです。

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仕事を楽しむ人の考え方

一方で、楽しんでいる人は自ら行動しますから、「休み」という感覚は無いに等しいです。

毎日、楽しいことをしているので、「疲れ」よりも「達成感」が心を満たし、残業はむしろ自ら行い、休日も自然と仕事のことを考えてしまいます。

読書でもスポーツでも自分の好きなことなら誰でも積極的に行動するので当然です。

 

そして、楽しんでいる人たちは自分の生活の変化を求めます。自分が行動することによって起こる変化にワクワクして生活し、毎日がめまぐるしく変貌していきます。

 

また、そんな人たちは自分の楽しさを周りの人に伝染させていきます

一生懸命頑張っている人、楽しんでいる人を見ていると、自分も楽しい気持ちになり、やる気も湧き出てきます。

それに、自分が失いかけていた仕事への意欲に拍車をかけてくれますし、何より、彼らを見ているとスッキリした気持ちになれます。

 

オリンピック選手のように、何かに向かって一生懸命に努力している人は格好いいし、ぼくたちに力を与えてくれますよね。

これらが行動している人と行動させられている人の違いです。

 

行動を見直せるかがカギ

「仕事の主人である」のか、

「仕事が主人である」のか、

考えてみると面白いですね。

 

ここでは「仕事」を例に挙げましたが、「行動しているか、行動させられているか」つまり、「行動が能動的か、受動的か」という問いに当てはまるのは仕事だけではありません。

家族、恋人、天候、趣味、勉強、スマホなど。

 

自分は主人であるか、奴隷であるか見つめ直せる材料は山ほどあります。

あとはそれを、ふとした時に「見つめ直せるか」だけです。