ぼくらに生きる意味なんて無い

ぼくらに生きる意味なんて無い

生きる意味なんて無い。残念ながら。ぼくらは生まれた時から死に向かって進んでいる。それは体を持つものの宿命であり、決して逃れることはできない決まりごと。

自然に内在する無意味

しかし、残念ながら、生きることそのものには意味なんて無い。全くもって無い。なぜなら、ぼくらは儚くも一瞬で命を散らすことがあるからだ。人間はもろい。生き物はもろい。

ぼくらはいつも生きるために安全の道を作ってきた。生命活動を続けるために食事を取り、水分補給をする。休息を取り、家族を持つために安全な家を作る。子孫を残し、文明を発展させるために学問を作り、繁栄させて来た。

膨張する宇宙の中で、ギュウギュウに凝縮された原子が繋がりあってできた星という塊の中に生まれるという現象がただ起こってしまった。起こってしまったのか何らかの意思がそう設計したのかは分からない。

けれど、結果論的には、ぼくらはここに存在し、生きている。そして、その命を幾重にも重ねて来た。進化という武器を持って、自然環境に適応しながらぼくらはここまで生きて来た。

ゲームオーバーはすぐ側にある

でもどうだろう。世界中の火山活動が活発化し、大陸を揺るがすほどの巨大地震が起こってしまったら。もし、巨大隕石が接近し、地球が一瞬で崩壊してしまったら。銀河の衝突によって中身の構造がグチャグチャに変わってしまったら。

もちろん人類の歴史、進化、未来、全てが幕を閉じる。今までして来たこと、今していることは全てゲームオーバーになってしまう。

あるいはゲームのリセットボタンを押したように消え去ってしまう。

だとしたら、ぼくらが日々の生活でしていることは無意味だ。まるで、穴を掘って埋められて、また穴を掘って埋められるという拷問のよう。いや、消えてしまうのなら、そんな拷問以前の問題だ。

人のために生きる意味を生み出す大前提

生きる意味の話になると、他の人にとって行動することに意味がある、という意見もがある。確かにそうだ。

ぼくがボランティアに参加して、地域中のゴミを拾うことには意味がある。そうして地域を綺麗にして貢献していることになるし、自分の自尊心も高まる。

だがそれは短期的な目で見た時の話で、長期的に見れば消え去ってしまうもの。

生きることとそこで成したことをプラスとするなら、死ぬことはマイナスとなり、最終的にはゼロ、つまり無になる。しかし、誰かが死んでもその人が残したものを受け継ぐ子孫が生きていくのであれば、意味は無くならない。

逆に言えば、冒頭でも書いた通り、人類みんながいなくなってしまったら、生きる意味は全てなくなる。

意味の不在。欲の占有

じゃあ生きる意味が無いからといって、生きないのかというとそうでもない。生きる意味は無くても、ぼくらには生きる意志がある。

ぼくだって死にたいというよりかは生きたい。ご飯を食べたいし、旅行に行きたい。何か消費したいし、作りたいし、人と交流したい。そうやって生きている以上、際限なく生まれる欲を満たしていきたい。

人が生きる意味はなくても、尽きることの無い欲はある。そして、それを満たし朽ちていくこと、これも人間に与えられた宿命。生きている限り、欲に従いながら生きていくこと以外の選択肢はない。

なら、欲を満たそうと全力で行動することが、ぼくら人間が生きる理由そのものだ。そんなものはいつか来る自らの存在の終末とともに消えてしまう。

でもどこかの時間、どこかの場所では、たしかに意味があった。いつの日かそんな風に言えるようにぼくらはただ生きていくんだろう。