さびしくて辛いのは罪だと思う
- 2019.10.07
- えんが話
さびしさって罪だと思う。心の奥底を、頭の中の情報を、さびしさで埋め尽くされることがあるから。ぼくは元々そんなにさびしさを感じない人だった。むしろ、さびしいという感覚が分からなかった。
さびしさの衝撃
なんで他の人はさびしいって言うんだろう?思うんだろう?そんなことを疑問に思っていたほど。だから恋人が欲しいという感覚もぼくには無かった。でも経験としては欲しいなとも思ってた。
そんな時、ネットでいつものように記事を読んでいたら、ふとインタビューに応える人のこんな言葉が目に入った。
「あまりにもさびしくて、一時期マッチングアプリを使っていました」
ぼくにとってはそれが衝撃的だった。「さびしい…?なんで?」そう思ったのと同時に「みんな恋人が欲しい理由はこれか!」とも気づいた。もちろん必ずしもさびしさだけが理由ではないんだろうけど、ほとんどがさびしいという感情から来てることはあながち間違ってないはず。
数字がさびしさを増幅させる
ぼくにはさびしさが無い。だから一回さびしさを感じる事を意識して生活しようと決めた。具体的に何をやったのかというと、人と会う頻度を上げて、別れ際にさびしいと思うようにした。
といっても普段さびしさを感じないぼくがさびしさを感じようとしてもそう簡単にはいかない。なので、さびしさを数値で表現してみた。「この人に会う回数は多分ぼくの一生の中で3回くらいしかないだろうな」という感じで。
実際そうだろう。この先、人生で何度も会う人といえば、自分のパートナー、子供、仕事仲間くらいに絞られてくる。大学でこそたくさんの人がいるから会う人は無限に感じられるけど、仕事が始まってからは生活範囲が決まるので、何度も会う人の数は3桁にも満たないんじゃないかと思う。
”さびしさ”がもたらす恩恵と罪
そんな風に考えることを習慣にすると、自然とさびしさの感情が芽を出すようになってきた。友達に会っては、別れ際になんだか切なくて胸が締まる思いがする。ようやくぼくにもさびしさが備わったみたい。
でもこれは同時に、さびしさによる行動を助長することになった。人に会いたい気持ちが強くなったため、毎週のように誰かに会いたくなって、いろんな人と会ってる。
これはこれでいいんだと思うけど、あまりにも強いさびしさはぼくがやりたい、もしくはやろうと思ってることの時間を蝕み始めた。
人生が満たされる条件の一つは、人と人との良質な交流であることは明白。だけど他に、自分がやりたいことに没頭すること、もある。それを後回しにしてしまったら、自分がいつか亡くなるとき確実に後悔する。
さびしさにはコントローラーが必要
さびしさは人に会うことを促進してくれるけど、その動機で人に会うときにはダラダラと過ごしてしまうこともある。
そんな時間の過ごし方をするなら、むしろ自分のやりたいことに時間を費やす方が圧倒的に価値が高い。だから、そうしたさびしさの罪を繰り返さないよう、さびしさのコントロール力を身につけられるようになろう。
その方が絶対に楽しいはずだから。
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