心の開放ができる人たちの存在
- 2017.11.26
- えんが話
僕はとても臆病でいっつも人の目を気にし過ぎては、何も言えなくなっていた。
泣き虫で、悔しかったり、情けなかったり、失敗したりしたときはいつも泣いていた。
そして、いつも学校やコミュニティの中で言いようのない居心地の悪さってのを感じてた。
自分でいられる人たち
でも今まで生きてきた中で確かにありのままの自分でいられる人たちがいた。
一緒にいると自分らしい自分でいられる人たちがいた。
そして居心地の悪さってのは自分らしい自分でいられない人たちといたときに感じてた。
でも実際にそこにあったのは、居心地が悪いと自分で勝手に思い込んでいた自分で、自ら壁を作ってしまっていただけなのかもしれない。
心の閉鎖
僕は臆病だから、いつも人との衝突を避けてきた。
今、思えば仕方が無かったのだろう。それは、僕がまだ小学生だったころに経験した心の痛みが原因だ。それから二度と人と衝突したくないと心の底から思った。
じゃあ人と衝突しないためには何をすればいいか。
答えは単純だ。
人と仲良くならなければいい。
僕は小学生で無意識のうちにそれを感覚で捉え、実行していた。
心を閉じた。感情を殺した。人と話さないようにした。
話しても上っ面のことばかり。応えはいつも優等生。当たり障りのない借りてきたような言葉。
まさに受け応えをするばかりのロボットだった。
そこに居心地の悪さを感じるのは無理もない。いつも心が窮屈なのだから。
葛藤の渦
それでも物事はそう上手くいかない。衝突はふとしたときに起こる。
そのたびに僕は泣いてきた。こんなはずじゃないのに、という葛藤の渦に耐えきれなかった。
人と仲良くなるほど衝突した時の痛みはデカイ。
胸が抉られるような痛みと悲しみ、そして自分の不甲斐なさ。枕は涙と鼻水でグシャグシャになる。
ティッシュは箱からあっという間になくなる。泣き疲れた後に残る涙に腫れた目の痛みが僕を責め立てているようだった。
自然な空間
でもそんなものを一切感じない時間も確かにあった。
それが自分のままでいられる人といる時だ。
そこには、僕が今まで避けてきた衝突、そしてそれによる心の痛みを受ける不安が微塵も無い。
自分が何を言っても受け入れてくれる、またはその逆に相手が何を言っても受け入れることができる。そんな関係でいられる人たちがいる。
自分が自然と話したいと思えて、何も考えずに言葉が溢れてくる不思議な感覚。
それに気づいたとき、今度は暖かい涙が溢れ出てきた。
心の痛みはまるで無い。代わりにあるのは心の拠り所のある安心感と感謝の念。
僕は気づかない内にこういった人たちに支えられて来たんだ。そして、今も支えられてるんだ、という実感。
前進へのエネルギー
これまで紆余曲折しながらも前進してこられたのは、僕の気づかない領域でのこういった人たちの存在が大きかったのだろう。
今も課題は目の前にあるけど、他愛のないやり取りだけで元気がもらえるし、更なる前進ができる。
みんなには絶対に恩返しをしたい。そうしないと気が済まない。
そう心の芯から思えたから、僕はまだまだ進んで行く。
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